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第十一章

山月記と人虎伝の異同

妻子の今後についての依頼

人虎伝=物語の中盤

山月記=物語の終盤

 

これらを「記述の順序の差」と解するだけでは、

双方の物語の主題理解には不十分である。

 

「人虎伝」の李徴が物語の中盤で家族の今後について依頼している、

ということの意義を理解する際に注意すべきは、

「家族を案ずる李徴の想い」が、

物語の主題には大きな関わりを持っておらず、

物語の逸話の一つに終始している、

と言う点であろう。

 

一方「山月記」では、李徴は物語の終盤でこのことを語っている。

「山月記」の李徴は「族を想う気持ち」を表すべく

「本当はこのこと(家族の今後について)を先にお願いすべきだったのだ」

と、語っている。

さらに「山月記」の李徴は、

「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ

とも悔恨している。

「人虎伝」には、このような記述はない。

 

これらの記述の有無や、

「山月記」においてこれらが物語の終盤で語られていることが表すのは、

「山月記」の李徴の悔恨の最たるものが、

「家族を想う温かな心」「人間的な思いやり」の欠落である、という点であり、

「人虎伝」では、この点が重視されていない、という点であろう。

 

このことが李徴を虎に貶めた最大の理由であると解するのであれば、

「妻子の今後についての依頼」が、

「山月記」の主題に大きな関わりがあることは明確となるし、

また「人虎伝」との最大の相違であるとすることも可能であろう。

 

さらに、李徴が詠んだ漢詩に関して、

袁傪が「非常に微妙な点において欠けるところがある」

と評したことについて理解するのにも、

上記の物語の主題理解は有用な解釈である、と言えよう。

 

よって、

「山月記」において、物語の終盤にこの記述がなされていることは、

虎になって初めて李徴が得た人間性」を強調するための改編であると言えよう。

 

「人間性の喪失」を主題とする「山月記」

「人が虎になってしまう怪奇」を旨とする「人虎伝」

この二つの物語の最大の相違点はここに存する、と解釈したい。

 

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