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Around Italy?

ここまでに見て来たように、

スイス周辺の仏語圏として成立したカリオストロ公国ではあるが、

では「スイス周辺に公国を築く」とは、

どのような民族がどのような時代に行なったことなのであろうか。

 

それを明らかにするためのキーワードとして

1)「ゴート族」

2)「指輪」

の2つを挙げておきたい。

1)ゴート族について

「Neighboring Swiss?」のページに記載した宮崎監督の「設定構想」にも記述されているが、

カリオストロ家は「ゴート族」の末裔

だとされている。

 

では、欧州史の中で「ゴート族」とはどんな存在なのだろうか。

 

ゴート族とは、バルト海沿岸の地域を起源とするゲルマン系民族である。

4世紀のゲルマン民族の大移動の際には黒海沿岸に一時定着

(左図の赤線Goths がそれにあたる)したが、

その後西ゴート(Visigoths)と東ゴート(Ostrogoths)に分かれて移動を続けた。

 

西ゴートはギリシア、アドリア海沿岸を経て

イタリア半島

さらに西の一部はスペイン・イベリア半島にまで達し西ゴート王国を築いた。一方の東ゴートはイタリア半島に進出して東ゴート王国を築いた。

476年の西ローマ帝国滅亡に大きな影響を与えたのが、

ゲルマン系ゴート族であった。

 

カリオストロ家の祖先は、

イタリアからスペインにかけての地域を西暦300年から500年の間に移動して、

各地に軍事的・文化的な大きな影響を与えた民族であった。

Wikipedia 「西ローマ帝国」より ゲルマン民族の移動経路

2)指輪について

次に、映画中の以下の場面に注目してみたい。

ルパン三世が次元大介と酒場で指輪に刻まれた文字を読んでいる。

「この文字は死滅したゴート文字だ。『光と陰 再び一つとなりて蘇らん』1517年。年号はローマ数字だ。」

A )ゴート文字とは

西ゴート族が話していたゴート語を筆記するため、

西暦350年から500年頃まで使われていた文字である。

ゴート文字を使っていることから、

カリオストロ家の祖先は西ゴート族

であったことが分かる。

 

他のほとんどの古ゲルマン系語群と同じく、

ゴート語も6世紀頃までには死滅したが、

他の語群の資料がほとんど残っていないのに比べ、

ゴート語は聖書をゴート文字によって筆記した資料が現存しており、

後世の研究によって解読されている。

ルパン三世が指輪に刻まれたゴート語を読み解くことができたのも、

このせいであろう。

 

このようにゴート文字は残喘を保ったが、

6世紀以降、実際に使用されることはほとんどなくなっていたことが

「死滅したゴート文字」

と言うルパンの表現に繋がっていると考えられる。

 

また、クラリスの祖先は、

ゴート語が「死滅」した500年頃から、

ローマ人がカリオストロを去る1517年までの1000年以上も

「死滅」してしまったゴート文字を大切に守り続けて来た。

「言葉こそ文化であり民族である」

という命題を鑑みても、

クラリスの祖先が「ゴート族」の誇りを1000年もの間、

守ろうとしてきたことが窺える。

 

 

この台詞で注目すべき点は2つ。

A )カリオストロ公国を築いたクラリス王女の祖先は、ゴート文字を使っていた。

B )1517年に指輪が作られた。物語の最後に明らかになるが、ローマ人が水門を築いてローマの街を湖に沈め、この地を去ったのが1517年あるいはその前後であった。

 

と言う2点である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia 「ゴート文字」より

1548年頃の神聖ローマ帝国 領土図 Wikipedia 「神聖ローマ帝国」より 

B)1517 年に存在していたローマ帝国とは

「神聖ローマ帝国」

である。

つまりカリオストロ公国の所在地は

右図の神聖ローマ帝国内であった。


また当時の帝国の勢力図を見てみると、

西ゴート族の変遷と重なるのは現在の

オーストリア、イタリア、スイス、フランス

にかけての地域である。

 

 

1517年はマルティン・ルターが宗教改革の布石となる

「95ヶ条の論題」を発表し、

2年後の1519年にはカール5世が皇帝に即位している。

カール5世の在位中には、

その後の帝国を揺るがす宗教改革の嵐が吹き荒れることになり、

神聖ローマ帝国が大揺れに揺れた時代

であった。

1517年頃、カリオストロ公国の場所からローマ人が去ったのには、

このような時代の影響があったのであろう。

 

1500年代の神聖ローマ帝国、クライス分割統治図

この時代の「神聖ローマ帝国」を理解する際の留意点は、

私たち近代国民国家に暮らす人間が想起する国家」と

この時代の「帝国」とは趣を異にするものである、

ということである。

 

18世紀フランスの思想家ヴォルテールによる

神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない

との神聖ローマ帝国評は特に有名であり、

当時の欧州における「国家観」を理解するのに有用な論評である。

 

つまり、左図「1500年代の帝国の勢力図」が示す通り、

1500年代の「神聖ローマ帝国」内には、

諸侯が乱立し、帝国はそれらを容認しつつ、

何とか「帝国」の体裁を保っていたにすぎない、ということである。

 

欧州史の詳細を述べることは本サイトの主旨ではないので、

詳しい歴史は専門的な分析に委ねたい。

その上でここで述べたいのは、

カリオストロ家の祖先が

「ローマ人」から受け継いだ街を水門越しに湖水に沈めた1517年頃は

ローマ帝国は左図の通り諸侯乱立の時代であり、

帝国を10の「クライス」に分けてそれぞれに多くの統治権限を与えた

「分割統治」のシステムで帝国の秩序を守っていた、

と言うことである。

 

それぞれの地域の支配者には、ローマ皇帝から様々な称号が与えられ、

大公国、公国、選定候国、などの名称が乱立している。

このような時代背景を考えると、

この時代に「カリオストロ公国」が成立したとする設定には、

充分過ぎる程の説得力がある、と言える。

西ゴート族の移動経路 Wikipedia 「西ゴート族」より

ここまでの論点を整理しておきたい。

 

カリオストロ家は

西ゴート族

の末裔である。

4〜5世紀に西ゴート族の大多数はスペインで王国を築いたが、

一部は移動途中の

オーストリア

イタリア

スイス

フランス

周辺の地域に残って独自に公国を築いた。

カリオストロ家はそれらの人々の末裔である可能性が高い。

左図のように

「1500年代の神聖ローマ帝国」に

「400年代の西ゴート族の移動経路」

を重ねて見ると、

カリオストロ家の祖先が残留した場所は、

よりイタリアに近い場所に大きく可能性あることが分る。

1500年代の神聖ローマ帝国の範囲図(赤)に

西ゴート族の移動経路(矢印)を重ねた図

前ページの論点「フランス語圏」に、

前々ページの論点「スイスとその周辺の地域」を考え合わせ、

スイスに国境を接するフランスの地域圏と、

スイスの仏語圏のみを抜き出して色づけしたのが左図である。

 

さらにこの図から、

本ページに既述の「ゴート族の移動経路」を考慮して

イタリアに近接しない地域を除外すると、右の図となる。

 

Rhône-Alpes フランスのローヌ・アルプ地域圏

Suisse Romand スイスの仏語圏


のみが残ることになる。

この図に

既述の「1500年代の神聖ローマ帝国の領土」

を重ね合わせると下図のオレンジ色の部分だけが残ることになる。

スイス言語分布図 (仏語圏は紫)

これらの条件を考えると

カリオストロ公国の場所がかなり絞り込まれたことになる。

 

つまり

ゴート族が移動した場所であるイタリアに近接する

1500年代に神聖ローマ帝国の領土にあった

スイスとその周辺の

フランス語圏

とは、具体的には、フランス

Rhône-Alpes ローヌ・アルプ地域圏内の

Haute-Savoie オート・サヴォワ県

(ミネラル・ウォーターで名高い Evian エビアンや

世界的なアニメ映画祭で知られる Annecy アヌシーを含む地域

Suisse Romande スイス仏語圏

の2つとなる。

オート・サヴォワ県 Haute-Savoie (赤)

さらに加えておきたいのは、

カリオストロ家の人々は、

辺境の地で他からの圧力に屈せずに生き延び、

ゴート文字、ゴート語を文化の中心に据えて大切に守り続けて来た人々であった、

と言うことである。

 

 

さて次のページでは、

カリオストロ公国の地形を検証してみたいと思う。

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